【note更新】職場不適応だった頃のはなしを書いてみました⑤
noteを更新しました。
おしごとシリーズ、完結です。
👆の記事に盛り込むことはなかったのですが、記事を書きながら、ふと「そもそもこの仕事が好きとどこで判断したのだろう」と思いました。
記事には「仕組み」と書きましたが、こちらはそういうことではなく「なおもこの仕事を続けようと再認識したエピソード」のことです。
ある日、会社でとても信頼している人が退職する話になりました。
わたしはちょうどうつ期到来中だったのですが、症候が悪化する程度にはショックなことでした。
そのことをポロリ学生時代の友人に漏らすと「泥船になんて乗っていられないからね。有能な人ほど降りていくよね」と言われました。
この言葉が、何故か今でも許せないのです。
友人としても、何故わたしが機嫌を損ねたかわからないと思います。わたし自身がよくわかっていないですし。
仕事の愚痴はホロリこぼすこともあったし、会社が沈みかけた船なんてこともわかっていたりする。それに対して友人が辛辣な言葉で返すことも、別に珍しいことではなかったのです。そこも理解していたハズ。
「いつもの会話」だったハズなのですよね。
ただ、このときは「有能であるかどうか」と「泥船に残るかどうか」は別じゃない?と感じたのでした。
仕事って、損得だけではないのが実際だと思うのですよ。まぁ世の流れ的には効率化の方向なので別にそちら側に行き着いてもいいんですけど。資本主義って本来そういうものだし、自給自足、弱肉強食、競争社会になるならみんなそれぞれ頑張っていきましょうねって感じ。
では、人は何故こんなに病んでいるのか。
本当に効率だけでいいのか。
損得勘定をすばやくできることが有能なのか。
その理屈でいえば「有能な人」は、人間としては非常に軽薄な行動をすることにならないか?
わたしは一緒に働いていた人に対して「有能さ」を抱いていた一方、人間としての「誠実さ」も感じていました。
皆が皆仕事に対してやりがいを持っているわけではないことはわかっている。
でも、「生きるための手段」に過ぎないからこそ。
“人間”という社会的動物の生き残るための姿勢の話だと思うんだよなぁ。
・・・・・・ただ、確かに、見切りをつけることも必要。全てを抱えることはできないから、断捨離も必要だよね。
このときに断捨離したのが往年の友人の方だったことに、自分自身の冷たさを感じたし、自分は仕事の方を選択したのだと感じました。
人間の“欲求”というものは際限がないものだと友人との付き合いの中で感じ、抱え込めなくなったのも一つですが、そういった“個”の付き合いよりも“泥船”を優先したことを、「好き」の枠組みに着地させたのが実際でしょうか。
友人には悪いことをしたと思いますが、その分、気を引き締められた気もします。
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